昭和56年12月22日 朝の御理解
御理解第27節
「昔からあの人は正直者ぢゃ神仏のやうな人ぢゃと言う者でも段々不幸な事が重なって世間ではどう言うものであらうと言うやうな事があろうが何程人に悪事をせぬ正直者でも人が善いのと神に信心しておかげを受けるのとは別物ぞ」
ここに昔からとありますが、いわゆる昔から「正直者の頭に神宿る」と言うような事を「真の道に叶いなば祈らずとても神は守らん」と言ったような事も、こりゃあまあ昔からそう言うふうに言われたり、又観念してきた事なんですね。そう言うようなまあ考え方を教祖様はこう一掃しておられるようですね。そんなこっぢゃないて、信心て言うものはそんなもんぢゃないと。
人間が善いから神様仏様のようだから正直者だからと言うていわゆる神は守らんとか頭に神が宿るとかそう言う事はないて、いわゆるこの教祖金光大神の信心はそう言う、信心はそう言う信心なんですね。まだ信心せやんごつ罰かぶっとらんと言う様な事を言うね、申します。何か信心する者は特別悪い事でもしたかのような、しておる者かのようなふうに言う事もございます。
ところかどうでしょう、その正直者又は神様やら仏様のような人ぢゃと言われる人が一度真の信心が分かってね。いわゆる真の道を改めて分からしてもらい、それを踏み行う生き方になった時にはじめてまあ鬼に金棒と言うでしょうか。本当のお徳にも触れる事が出けるおかげを受けると思うですね。
信心にはもう素直心一つと言うふうに言われますけれども、どんなにその素直な人だと言うても、あの信心を抜きにしたら私はおかげにはならんと。やはり素直心が神に向かうから雲の上まで登る道が開けてくるのですね。
この辺の所をね。教祖様ははっきりと言うてのけておられますね。信心しておかげを受けるのは別物ぢゃと。ほんならどう言う罪業の深い人であろうが、悪人であろうが又どんなに腹いきのよくない人であろうが、信心しておかげを受けると言う事は事実ですけれども、やはりいよいよお徳を受けて行く為には我と我心が拝めれるような自分の素直心に合掌でけるような自分の正直な心に生まれつかせて頂いた事を有難いと御礼が言えれるような信心が身に付いてくる時ね。初めて教祖の御信心いわゆる御神徳の受けられる信心が頂けてくるようになると思うんですね。
だからもうその改まらんでも研かんでもよいと言う事ぢゃないのです。どこまでも信心はどんなに正直者と思うとる人でもほんなら御教えに照らさしてもらう、どんな素直な人でも御教えにそれを照らさしてもらうとです。やはりそれではたりない所があるのです。 言うなら御神徳を受けていくと言う事には足りないのです。御神徳を受けて行くと言う受け物には、それではあまりもの信心と言う事になるのです。私共が素直になる事も精進せんならん、それこそ自分で自分の心が拝めれるような本当に神様か仏様のような心の状態にもならせて頂く精進をさして貰うて、そしていて尚かつ願いをする。真の道もいよいよ真の道として求め求道していくと言うね。しかもそれは限りがないものなんです。
だから金光様の御信心頂いとるから良い人ばっかりと言う事ぢゃ決してない。おかげは受けておる何十年間成程おかげは頂いておるけれども人間はひとつも変わらない。強情で素直でなくてね。意地悪でと言うなのが沢山ありますよ。 それでもやっぱおかげは受けてるんですね。ですからどうしても言うならお徳の受けられる生き方を身に付けさして頂くね。だから求められるのはです。だから素直な人であっても正直な人であってもね。一心が立たなければ徳は受けられません。一心を立てると言う事。一心を貫くと言う事。素晴らしい心です。いわゆる素晴らしい迫力をもって神様に向うて行く時に、いわゆる向う倍力の徳を授けると仰せられる向う倍力のお徳を受ける事が出来るのです。
どんなに正直者だと言うてもね。どんなに仏様神様のような人ぢゃと言うても。昨日一昨日お参りして来た方でとてもいい人らしいんです。けれどもある教会の総代をしておられる、所があのお嫁さんから手紙がきとる、その手紙をもってここへ見えられた。
どうもこの頃眼がこんなに薄くなりまして読めませんけども、まあ私が読まにゃいかんとぢゃろうごたったから眼鏡かけた上に又こうあの拡大鏡でもうやっとかっと読ませて頂いたんですけれども、とてもいい人らしんですけども仕事をするのを好かんそうですたい主人が、ほいでまあ奥さんが夜の商売に出られる。
ほいで余財も家財も全部なくしてしまって、もう私も疲れきった、どうしたならいいでしょうかと言う手紙をもってここへ見えられた。もうそんお母さんになる方がとっても人間はいいんだそうです、正直でね、おとなしくって人にも愛されるものを持っておる所が仕事をする事が嫌いなんですね。
そいで嫁さんが夜の商売にでも出らなんと言ったような結果になっとる。だからこれはどう言うような信心さして頂いたらよかろうかと言ったようなお伺いやらお願いやらの事でしたが。例えばお金を例えば送ってやっても無駄と言うような事を頂きましたけども。 これはやっぱり親が送ってやらな仕方がないから送ってやる、その今までの送ってやるやり方を変えなさい。いわゆる送ってやるその内容を変えてまあ送らせて頂いて子供の事、又嫁、孫たちの立ち行きを願わなきゃならんとね。だからそん研修の時に先生方に話した事でしたけれども金光様の先生になりゃね、もうちゃあん座っとるばっかりで無精者でんよかばいちね。
けどもこれだけは、言うなら神様へ心を向けると言う事だけはせにゃ出けん。まあそんな人もあるまいけれども言うなら仕事嫌いで金光様の先生になるち言うともないぢゃないかもわからんよと言う様な話をした事でしたけれども、そう言う人でも自分はもういよいよ何も仕事が手につかないけれどもね。こと神様の方にだけは本気で向おうと言う気になればおかげになると言う事なんです。
これも昨日、昨日一昨日、そこの合楽食堂に食事に行かれた。ほいでここの事を聞いてあちらのお母さんがお導きして来とったけれども、もう私が下がった後だった。そして昨日又お参りして見えとられるね。そう言うね一心を立てれる人はおかげ頂きますですね。 伊万里の竹内先生が私と逢う、あの時分には私が椛目にいないはずはないのに、いない時ばかり四回見えとるですもんね。当時は熊本からじゃった。大概の者はもうサジ投げる、もう縁がないとぢゃろと言う事でね。ようやく五回目にまあお逢いして今日の竹内の家の信心があるわけなんです。
だから昨日その方にあなたおかげ頂きなさるよと言うて、もう初めから参ろうと思うて来たんぢゃないけども食堂でお話を聞いてお参りをしてきた。所がその先生、教会長は留守だった。だから昨日又お参りしてきた。相当遠方からでした。
昨日まあ本当に世の中には奇特な方があるもんだと私は思ったんですけれどもね。福岡の川上さん所の長男安継さんち言いますが、いわゆるコックさんの稽古をいたしております。まあ何て言うでしょうかね。インテリコックさんち言う事になるでしょうか。大学出てからそう言う修行したんですから、それであるレストランと喫茶店と二軒就職をお願いしとった所が二軒ながら来てくれと言う事である。そいでどちらにしてよいか分からんからお母さんを通してどちらが、どちらに職つかせて頂いたらよかろうかと言う事であったから、まあ甲と乙なら乙の方を取る様にと言う事であった。
そいで甲の方にお断りに行かなけれはいけない。そいで一昨日、安継さんがお断りに行ったんです。ところが向うの主人と言う人がもうあなたには、こんないくら募集に集まって来とりますけども、あなただけにはどうでも来てもらえると思うておったから、もう一遍考え直して下さいとこう言うわけ。
それで金光様の話、実は私の方はもう長年合楽の金光様にお参りをさせて頂いてもう一から十まで御神意を頂かなければその事は決めないのです。母がお伺いをしましたらお宅ぢゃない方がよいと言われましたから折角だけどもと。所がどうしてもそのあなたに来てほしいと言われる。
そいで色々兎に角私が生まれる時から合楽の金光様にお願いをして母はもう長年福岡から合楽まで日参するほどしの信心を頂いて、神様の仰せには一分一厘間違わんような生き方をさせて頂いておるけれども、あなたがそう私をどうでもと言うて下さるならば、合楽の親先生に会って下さいと言うておいた。
そしたらお会いしましょうと言われる。そんなら明日一昨日の言葉で、ほんなら明日行くから同道してくれと言う事で昨日見えられたんです。福岡からですね。あーあ本当に成程まあ主人がその安継さんに、この人だけは腕だけぢゃない人物の上でもまあ見込まれたんでしょう。所がその御主人と言う方も本当に一目ぼれするような立派な人格者らしい方でした。お会いゆっくりお話してませんけどね。しかもならその川上さんは是非来て頂きたい、その御神意がその私のぢゃないと言う事であったそうですけれどもね。
御無理にでもお願いが出けたらお願いしたいと言う事で、ここへ座られた途端に私が頂いたら、お許しを頂いたんです。これも昨日私がここ昼出るとがちょっと遅かったから、しばらくここで時間を待たれたそうですけれども。私がここで座った途端に頂くとが『占部誠司』と言う事を頂くんです。
占部とは占いと言う字ね。占い師、占部誠司と言う昔ここで修行しよった人が大阪の方から来とったんですけどね。その名前を占部誠司と頂くんです。だから御本人としては神様やら信心やら分からんのだから、まあお伺いどころの気持ちで来たんでしょうけれども。誠司です。誠が司るとこう言う事なんです。誠司とは言偏の誠と言う字と司ると言う字が書いちゃるです。
占部誠司と言うのはね。もうですから、ハアこの人が昨日言いよった何々レストランの御主人だなあと私思わせて頂いて、まあだお届けする前に頂くのが占部誠司でしたから、あのこの神様は誠に弱い神様いわゆる、この神様は真一心に弱い神様。あなたの真一心を神様は受けて下さったんでしょう、お許しを頂いたね。
主人が言うなら従業員に惚れ従業員が主人に惚れ、言うならそう言う仲から生まれてくるお仕事なら、もう絶対素晴らしいお仕事が出けるようになるでしょう、と言うて申しましたら大変喜んで帰られましたけれどね。あの世の中にはそんなまあ言うなら奇特な方があるですよ。従業員一人雇うでも、この人と目をつけたらね。 わざさわざここまでお参りをして、そして許さるやら許されんやら、分からん、分からんのだけれども、どうでもこの人に自分方の店に来てもらいたいと言う一心、真一心がね。わざわざここまで足を運ばせたわけです。そしたら神様が占部誠司といわゆる真がおかげを司るんだと。
まあ今日の御理解で言うと、もう本当に言うならば真面目な考え方の人、言うなら正直な人、言うならば仏様神様のような人と言う事になるかも分からない。そう言う人でもですが。いわゆる真一心をこちらへ向けた時に初めて神様の働きが真一つで全てがおかげになる、心一つで全てがおかげになると言うふうにです。
その一心を神様に向けた時に、言うなら行けないはずのものが行けるようになり、助からんはずのものが助かるようになり、開けないはずのものが開けるようになると言うおかげになるんですね。いわゆる誠がおかげを左右する。いわゆる誠がおかげを司る事になるのです。確かにこの神様はね、開けんと言う例え事であってもそこを開かして下さる。それは氏子の真であり真心を求め給うのです。 どんなに仏様のような人ぢゃ一心が立つと言う様な人であってもです。それをこと神様の方へ向けてくる時、昨日のその一昨日からさして頂いた、とてもいい人だけれども仕事嫌いなと言う話。こりゃ息子さんの事でしたけども合楽食堂に食事に寄られてから、まあ前日お参りしてきたけれども、私が留守だったから又昨日の相当遠い所からです、から参ってきとる。そう言う一つの一心、だからあなたおかげ頂くよと言うて申しました事でしたね。
大概な者は別に初めから合楽と思うとるわけでもないのだから、けれども心にその前日決めたその心を又あくる日、もってお願いに見えとられるね、そう言う一心が立つね。昨日のその川上さん所の安継さんとこの御主人になられると言う方なんかもういよいよもって、そう言う心掛けの人なら必ずその心掛けをもって神様へ向うて来るならば、繁昌する事間違いない又ほんなら従業員のそう言う素晴らしい従業員がこう入ってくるようなお繰合わせも頂かれるに違いないと思うんですね。
いわゆる真であると言う事だけではいけない。その真が正直者であると言うだけではいけない。人が善いと言うだけではいけない。それが神様へ向けられる時にですね。もう自分は何も出けないから神様なっとお縋りせなと言って神様に一心が立つのですね。そう言う場合があるね。一遍参って又おんなさらんやったけんで、まああのままと言うのぢゃなくて又お参りをしてくると言うその追い討ちをかけて自分の心を神様にお縋りしようと言う心の状態ね。
いわゆるその川上さん所の今度の安継さんを雇われると言うレストランの経営者であるそこの社長さんであるね。一人の従業員を雇う為にこの人ーと思うたらね。それこそね、どうしてでも暇金使うてでも、ここまでやって来ると言うその一心ね。そう言う心掛けの人が神様へ向うその一心いわゆる誠が司る事になる。
この神様は真に弱い神様ね。だからその真だけぢゃいかん真一心をこちらへ貫かせて貰うと言う信心から教祖が仰っしゃられる。人が善いのと悪いのと信心しておかげを受けるのは別物ぢゃと言うような事がね。一段と分からせて貰うだけでなくて、やはり真にならなければいけない。正直にならなければいけない。しかもそれが一心をもって貫かれると言う時に、言うなら御神徳の受けられるような信心と言うのはそう言うル-トを辿って頂けてくるんだと言うふうに思いますね。
祈らずとても神は守らんとか又はその正直者の頭に神宿ると言うような考え方はこれは間違った考え方です。そう言う人が神様へ一度一心を向けて来る時、言うなら神は守らんであり、神宿ると言うおかげになってくるのですね。 この辺の所が今までの言うなら観念的な悪い事どんせんなら、そげん神様仏様ち言わんでもええと言ったような考え方ではいけない事が、そう言う事をよく分からせて頂く御理解だと思うですね。
「どうぞ」